こんな夢を見た(画像)。
月: 2025年6月
プリンの夢
今朝、私は夢をみた。大きくてうす黄色をしたプリンが私に向かって右に左に揺れながら恭しく運ばれていた。それを口にするかとおもわれたとき、目が覚めてしまった。
ここ最近仕事を休んでいる。仕事に行こうとすると体がぐんと重くなり、疲労感でうごけなくなってしまう。夫の口添えもあり医師から診断書をもらってこれから休職に入ろうとしている。
それが悔しいのもどこかとてもほっとしているのもどちらも本音だ。
今日は家事と読書で一日がすぎた。夕方の散歩の際に夫がプリンとケーキを買ってくれた。
私は大変嬉しくプリンをいただいた。
【双極性障害】今後、障害者が武装して健常者を襲うというデマ
私は障害者である。
障害者手帳を有しているし、障害年金も受けてなんとか生活をやっている。いわば、行政のサポートのおかげて生存を許されている、吹けば飛ぶような弱々しい生き物だ。私は私の生活のために納税をしてくれている健常者、あるいは健常でなくてもそれだけビジネスをうまくやって金銭を得て、たくさん税金を払ってくれている者たちに、せいいっぱいの感謝こそすれ、一つの恨みをも抱いてはいないことをここに宣言する。
私は障害者だから障害者の間で飛び交う風説、デマ、陰謀、そうしたものには詳しい(勝手に耳に入ってくる)つもりでいるのだが、「一部の障害者」が抱いている一つの説があるのでここに紹介する。すなわち、
「障害者は武装せよ。武装して健常者に迫り、自らに有利な政策の決定を推し進めよ」
というものだ。
かつて「労働者」は資本家にこき使われてひどい有様だった。昔のイギリスでは、労働者は貧困線以下で生活せざるを得なかった。児童でさえ労働に服していた。そのために家庭料理という文化が崩壊してしまったとか言われている。
いまは日本では8時間労働、週40時間の労働。しっかりそう決まっている。36協定がなければ残業は出来ないし、残業をすれば残業代がしっかり支払われることになっている。それに60時間を超える残業にはさらに重いペナルティが科されることになっているし、とにかく、現代の日本は、比較的(昔の酷かった国――イギリスとかと比較してという意味)労働者が保護されている国だ。
昔のイギリスと、いまのマシの日本。この劇的な改善をもたらしたのは何か? 国が違うから、ではない。「武装・暴力・変革」。これらだ。これらのおかげで労働者は人たるに値する生活を営むだけの権利を手に入れて、いまに至る。資本家が優しいから、労働者との話し合いに応じてくれて、そんで、労働時間を調整してくれたとかそういうヤワな話ではない。「武装」。労働者は武装した。そして大いに暴れた。殺した。壊した。燃やした。政府に改善を迫った。そうしたようやく資本家と資本家の尖兵たる政治家は聞く耳を持ち、流血の果てに、労働環境の改善が行われたのであった。
さて、目下、我が国の障害者――とりわけ最近増えている精神障害の者の不満は、いまや爆発寸前(爆発する元気のない者もあるのだが)といった様相を示している。というのも、精神障害のために生活が出来ないのであるが、生活保障たる年金制度の設計が(あるいは改善が)不十分であるからだ。
具体的には「障害基礎年金3級」の創設がまだわが国ではなされていない。これは何を意味するか? 「障害のせいで労働に制限を有する者」が、十分な支援を受けられていないのだ。うつや双極性障害、発達障害などでフルタイムで働くことができない。だから経済的に困窮している。生活のために必要な糧を有していない。しかし、年金制度を利用して経済的支援を得ることができない。生活保護制度を利用するには、高いハードルがある(そのハードルを越える手段は、いろいろあるのだがきっとしち面倒なのだろう)。
話し合いで(=民主主義の政治で)なんとか制度を改善してもらえればいいのだが、それを待つには時間が惜しい。それに話し合いの結果、必ず熟した完璧な果実が得られるとも限らない。悪い結果になるかもしれない。却下されるかもしれない。すなわち死刑宣告を下されるかもしれない。
死ぬくらいなら、武装だ。暴力だ。変革を迫れ。
障害者は武装をし、健常者に迫れ。話し合いのテーブルを用意するのは結構だ。それはそれでよい。しかしこちらにも力があるんだぞと、やるときはやるんだぞと、それを思い知らせなければ結局のところ、弱肉強食の世の中、決まるものも決まらない。
数万人の障害者が金物店で購入した刃物を持ち、都内を練り歩く。懐に隠したソレをいつ「用いる」かとタイミングを伺いながら。そして「その時」が来たのを時計で確認し、一斉にあたりにいる健常者に襲いかかる。別に、その相手に恨みがあるわけではない。これは体制への攻撃である。政治への攻撃である。政府への攻撃である。申し訳ないが、犠牲になってもらわなくてはならない。資本家を打倒する革命家たちも、「資本家は性格が悪い、悪人である」と思っているわけではない。そうではないが、よりよい社会のために犠牲になってもらう必要がある。暴力によって。今回、障害者が健常者に対して行う攻撃も、それと同じ理屈である――。
こういう噂が流れているんです。皆さん、どう思いますか?
こうでもしないと、障害者が生きていくために必要な政策は、適切なスピード感をもって決まることがないだろうというわけなんです。
で、一番の問題は、ここまで書いてきたことがすべて私の躁状態の時の妄想だってことです。ごめんなさい。易怒性の発揮で、こういう攻撃的な妄想が頭を支配してしまうんです。別にふだんの私は平和主義者なんです。だれかれに感謝しているんです。いつも生かしていただいてありがとうございます、と。どうしても危ないときは入院をしています。閉鎖病棟へです。きょうも薬を飲んで、安静に過ごします。たぶん本当にこういう演説をやってしまうんです、躁状態のときは。こうやって文章を書いているのも躁状態の予兆です。この辺で止めにしておきます。
そうなんです。もうおわかりかと思いますが、こんな危ないことを言っている「一部の障害者」というのは、自分のことです。ほかに誰も言ってません。知り合いの障害のある人たちはみんな優しくて自責的で、政治には文句をつけません。
私が悪いんです。私の脳が悪いんです。私の頭が悪いんです。助けて下さい。
換えられない価値
知らない人は笑うかもしれないが、夫は鍛えられた鋼のような心を持っている。
たしかに私は統合失調感情障害で夫は躁鬱である。
しかし、私は夫のそういった弱さというか、柔らかくて脆くて危なっかしい側面も含めてとても愛おしく思っている。
そして、私も自分自身の脆さや自棄な気持ちと対峙しているから解る。あの熱量のある苦しみのなかでそれでも自分を保とうとする痛みと、尊さを。ひときわ輝くように燃える魂を。
そんな夫の側に私は居る。祈るように。
【双極性障害】睡眠欲求の低下は何をもたらすのか?
睡眠欲求が低下している。あまり寝ていない。だいたい22時に寝て3時に起き、そんで活動している。ポケカやパワポケ、クワガタを眺めたりスプラトゥーン3をプレイしたりして遊んでいる。そうしているうちに日が昇ってきて、気の早い時間にエデを起こす。エデは正直なところ迷惑しているかもしれない。そんでもおれは早起きが止められないし、早起きを共有する楽しみを止められない。躁状態になるとこんなものだ。一人暮らしをしている時もそんなだった。3時半に起きて、友人に「ショートスリーパーになったかもしれない!」と報告していた。「これは仏道修行の成果だ! あたかもブッダが一日に少しだけ横になるだけで、あとはずっと瞑想や説法を続けていたように、おれも、そうなったのだ」とも。いまだに「あの時早起きしていたが、ダルタニャン、最近はどうなんだ?」と聞かれることがある。「もうやめたよ」としか言えない(いまの時点では言える)のだが、躁状態ってのは、そんなものなのだ。
卵が先か、鶏が先か、という言葉がある。躁状態の早起きについても、これと同じことが言える。どういう意味かと言えば、「断眠療法」という古典的な鬱の治療があるように、人ってのは寝ないでいるとどうやら鬱状態を脱してしまうらしいのだ。そんで、おれも、双極性障害の患者も、寝ないでいると躁状態になってしまうものであるらしい。おれは一時期(結婚してから)コーヒーを必ずベッドの横に用意して、早起きをしてゲームをするよう試みていた。ふつうに寝て普通に起きて仕事に行くだけじゃ、余暇があまりにも少なすぎるから、こうして、早起きして時間を遊びに使おうというもくろみだ。それが続いたらやがて、コーヒーがいらなくなった。コーヒーがなくても早起きが出来るようになった。そんで時期的には、それをしばらく続けてから、躁状態に入った自覚がある。奇行をしたくなったり、不安やイライラや焦燥感が強くなったり、エデにはいろんな迷惑をかけている。とりわけ精神的に酷い負担をかけて泣かせてしまったような時があった。これはとても辛い。エデはもっと辛かったろう。おれは自らを斬り捨てたくなるほど嫌な思いだ。愛すべき妻になんてことをしたのか。別に殴ったりしたわけではないのだ、誤解なきように書いておくが。
躁状態においては、現代で言うとSNSの投稿がとても増える。つまり表現活動、自分の言葉を外部に発散する欲求を満たすのに歯止めがきかなくなる。注意するべきは、おのれの顔写真などをどこかに発表しないでおかなければいけないってことだ。躁鬱人の先達たる坂口恭平は、自らの電話番号を世界に公開している。これは躁状態特有の行動だ。よくわかる。おれもやりそうになるからな。
おれはいつか鬱状態になり、動けなくなるだろう。それまでに躁状態のこのエネルギーを、表現に、用いるのが一番よい。つまり、双極性障害は詩人たれということだ。おれは詩人だ。詩を、ものして、発表する。あるいは発表をせずとも眠らせておく。そうしてエネルギーを静かに使っていって、生命の炎の熱を、この世界に残していく。
躁鬱のダルタニャンは剣を置き、ペンを取る。
【モルモット】きょうのジョシュアくん
波間のふたり
夫の調子があまりよくない。
そんなときでも夫は血の滲むような努力で怒りや焦燥感を耐えたうえで、私を励ましたり人生を楽しもうとしているように見える。私、エデはそんな心やさしき勇者である夫を心配しているし、敬意を抱いている。
【双極性障害】自己紹介をする者ら
他サイトのブログ記事なんかを読んでいると、「執筆者:タロウ。繊維業界で開発職を5年。英語と株に興味がある2児の父。最近はゼルダにドはまり中」みたいな自己紹介を目撃してなんか知らんが落ち込みを感じる自分がいるのを発見する。なぜ落ち込むのだろうか?
開発職を5年ってのがうらやましいのだろうか。あるいは、英語と株に興味がある人間がうらやましいのだろうか。あるいは、2児の父たるリッパな人間がうらやましいのだろうか。あるいは、ゼルダにドはまり中なのがうらやましいのだろうか。ソレはないな。
自己紹介は、なんていうんでしょうか、自信の発露、おのれの如何に優れているかの証明、主張、そういう性質があるからおれを落ち込ませるのかもしれない。なぜって、おれはおれダルタニャンのことをまったく優れている男と思っていないから、彼らと比較して、敗北した気持ちになりそのまま死にたくなるのさ。自己紹介はそういう意味では、おれの勝手な被害妄想だと思ってもらっても良いのだが、ある種「攻撃的」なものである。未知の敵に対して「おれはこういう生まれのこういう者ぞ! 古今無双の英雄ぞ! 正々堂々かかってこい!」と名乗りを上げて自らの戦意を高揚させるとともに、相手の戦意を喪失させる。そういう効果がある。自己紹介には確かにそういう側面がある、と、おれは思う。
少なくともおれは他サイトのよくある自己紹介部分を読んで、「仲間意識」「愛情」「友情」そういうのを感じたことがない。たいていの場合、敵、優れたる敵、おれよりも稼いでいることを恥ずかしげもなくアピールして、おれよりも高尚な趣味を有していることを意気揚々とアピールして、おれよりもとにかく幸福な人生を送っているらしいことを明言する、そういう人種が、ブログの末尾で「本記事のライター」みたいな欄の自己紹介をする奴らだ。
おれは、疲れているんでしょうか。まったく、こんなことにイライラしているなんてみっともない。ふつうではない。どうしようもない。救いようがない。少し油断するとおれは、テロを起こして世間に打撃を加えてやろうという妄想が進んでしまう。少し油断するとおれは、奇行を繰り返して世間に混乱をもたらしてやろうという野望が燃えてしまう。躁鬱混合状態っていうのが、こういう状態なのは、おれもメタ認知できているから大丈夫、制御はまだまだやれているはずだが、しかし、辛いね。
エデよ、すまないね。本当に、いつもすまない。
掃除とモルモット
結婚してからというもの、掃除が前より楽しい。
水回りを綺麗にしたり、掃除機をかけてみたり、コンロを磨いたりすると気分がよくなる。来客がくるとなると隅々まで磨きたくなるので、これからは来客を増やしていきたいと思うくらいだ。ただ、疲れてしまうと動けなくなるので、ほどほどに家事をしていきたい。
そういえば夫も朝はやくから起きて、モルモットの掃除や世話をしてくれる。最近のマイブームとのことだ。
ジョシュア君という。レタスやケールが好物で「プイー」とねだったり、モルモットのなかでは頭がいいのでちょっとした芸もする。

