あなたは躁鬱の波に揉まれながら、知性と機転を携えて生きてきました。
“普通”と比較してもどかしく悔いがのこることもあるかもしれません。
どうか、気を楽にして貴方に合った”これから”を模索してください。
生きている限り、側に私はいます。
あなたは躁鬱の波に揉まれながら、知性と機転を携えて生きてきました。
“普通”と比較してもどかしく悔いがのこることもあるかもしれません。
どうか、気を楽にして貴方に合った”これから”を模索してください。
生きている限り、側に私はいます。
こんな夢を見た(画像)。
睡眠欲求が低下している。あまり寝ていない。だいたい22時に寝て3時に起き、そんで活動している。ポケカやパワポケ、クワガタを眺めたりスプラトゥーン3をプレイしたりして遊んでいる。そうしているうちに日が昇ってきて、気の早い時間にエデを起こす。エデは正直なところ迷惑しているかもしれない。そんでもおれは早起きが止められないし、早起きを共有する楽しみを止められない。躁状態になるとこんなものだ。一人暮らしをしている時もそんなだった。3時半に起きて、友人に「ショートスリーパーになったかもしれない!」と報告していた。「これは仏道修行の成果だ! あたかもブッダが一日に少しだけ横になるだけで、あとはずっと瞑想や説法を続けていたように、おれも、そうなったのだ」とも。いまだに「あの時早起きしていたが、ダルタニャン、最近はどうなんだ?」と聞かれることがある。「もうやめたよ」としか言えない(いまの時点では言える)のだが、躁状態ってのは、そんなものなのだ。
卵が先か、鶏が先か、という言葉がある。躁状態の早起きについても、これと同じことが言える。どういう意味かと言えば、「断眠療法」という古典的な鬱の治療があるように、人ってのは寝ないでいるとどうやら鬱状態を脱してしまうらしいのだ。そんで、おれも、双極性障害の患者も、寝ないでいると躁状態になってしまうものであるらしい。おれは一時期(結婚してから)コーヒーを必ずベッドの横に用意して、早起きをしてゲームをするよう試みていた。ふつうに寝て普通に起きて仕事に行くだけじゃ、余暇があまりにも少なすぎるから、こうして、早起きして時間を遊びに使おうというもくろみだ。それが続いたらやがて、コーヒーがいらなくなった。コーヒーがなくても早起きが出来るようになった。そんで時期的には、それをしばらく続けてから、躁状態に入った自覚がある。奇行をしたくなったり、不安やイライラや焦燥感が強くなったり、エデにはいろんな迷惑をかけている。とりわけ精神的に酷い負担をかけて泣かせてしまったような時があった。これはとても辛い。エデはもっと辛かったろう。おれは自らを斬り捨てたくなるほど嫌な思いだ。愛すべき妻になんてことをしたのか。別に殴ったりしたわけではないのだ、誤解なきように書いておくが。
躁状態においては、現代で言うとSNSの投稿がとても増える。つまり表現活動、自分の言葉を外部に発散する欲求を満たすのに歯止めがきかなくなる。注意するべきは、おのれの顔写真などをどこかに発表しないでおかなければいけないってことだ。躁鬱人の先達たる坂口恭平は、自らの電話番号を世界に公開している。これは躁状態特有の行動だ。よくわかる。おれもやりそうになるからな。
おれはいつか鬱状態になり、動けなくなるだろう。それまでに躁状態のこのエネルギーを、表現に、用いるのが一番よい。つまり、双極性障害は詩人たれということだ。おれは詩人だ。詩を、ものして、発表する。あるいは発表をせずとも眠らせておく。そうしてエネルギーを静かに使っていって、生命の炎の熱を、この世界に残していく。
躁鬱のダルタニャンは剣を置き、ペンを取る。
他サイトのブログ記事なんかを読んでいると、「執筆者:タロウ。繊維業界で開発職を5年。英語と株に興味がある2児の父。最近はゼルダにドはまり中」みたいな自己紹介を目撃してなんか知らんが落ち込みを感じる自分がいるのを発見する。なぜ落ち込むのだろうか?
開発職を5年ってのがうらやましいのだろうか。あるいは、英語と株に興味がある人間がうらやましいのだろうか。あるいは、2児の父たるリッパな人間がうらやましいのだろうか。あるいは、ゼルダにドはまり中なのがうらやましいのだろうか。ソレはないな。
自己紹介は、なんていうんでしょうか、自信の発露、おのれの如何に優れているかの証明、主張、そういう性質があるからおれを落ち込ませるのかもしれない。なぜって、おれはおれダルタニャンのことをまったく優れている男と思っていないから、彼らと比較して、敗北した気持ちになりそのまま死にたくなるのさ。自己紹介はそういう意味では、おれの勝手な被害妄想だと思ってもらっても良いのだが、ある種「攻撃的」なものである。未知の敵に対して「おれはこういう生まれのこういう者ぞ! 古今無双の英雄ぞ! 正々堂々かかってこい!」と名乗りを上げて自らの戦意を高揚させるとともに、相手の戦意を喪失させる。そういう効果がある。自己紹介には確かにそういう側面がある、と、おれは思う。
少なくともおれは他サイトのよくある自己紹介部分を読んで、「仲間意識」「愛情」「友情」そういうのを感じたことがない。たいていの場合、敵、優れたる敵、おれよりも稼いでいることを恥ずかしげもなくアピールして、おれよりも高尚な趣味を有していることを意気揚々とアピールして、おれよりもとにかく幸福な人生を送っているらしいことを明言する、そういう人種が、ブログの末尾で「本記事のライター」みたいな欄の自己紹介をする奴らだ。
おれは、疲れているんでしょうか。まったく、こんなことにイライラしているなんてみっともない。ふつうではない。どうしようもない。救いようがない。少し油断するとおれは、テロを起こして世間に打撃を加えてやろうという妄想が進んでしまう。少し油断するとおれは、奇行を繰り返して世間に混乱をもたらしてやろうという野望が燃えてしまう。躁鬱混合状態っていうのが、こういう状態なのは、おれもメタ認知できているから大丈夫、制御はまだまだやれているはずだが、しかし、辛いね。
エデよ、すまないね。本当に、いつもすまない。
ここのところ不調で躁鬱混合状態にあるようです。人混みの中で叫んだり、やたらと奇行を繰り返してみたりしたい欲がむらむらと湧いてきてこれを制御するのが難しい。一方で落ち込んでいて、自分の良いところなど一つも見つけることが出来ず、新婚だと言うのに、このままフラッと現世からいなくなってしまうのがいいのではないかと何度も考えてしまいます。
感謝するべきはダルタニャンの職場(すなわちトレヴィル隊長麾下の銃士隊)で、私の病状に理解を示して、業務の負担を減らしてくれました。具体的には、出社をするのを免除して、リモートで働くのを許可してくれました。
しばらくは処方薬に頼って気持ちを安定させるよう務めながら、休養を撮りつつしっかり生き延びたいと思います。妻には負担をかけますが、たくさんお礼をしたいです。
昨日は労働の最中に熊本の女性から、熊本へ来たら女を買わなきゃいかん、というようなことを聞かされて、自我のないおれは俄にその気になり、街をふらふらしたところが、いろいろとつまらないことなど思い出されて、辛くなり、死にたいと思い、なおふらふらして、ついに、気がついたら、風俗街へ入り込んでいた。
仙術にかかったみたいに、いつの間にか、四囲の建物がけばけばしく変化し、キャッチのヤクザが無数に召喚されていた。情けないことだけれども、いざそこへやってきてみると、まるっきり意気地がなくなってしまって、気分は塞いでいる、獣欲はあるけれども、金を失ったらつまらない、何より、生身の女と相対するのが、怖い、ということになり、大勝軒のつけめん食べて帰った。
熊本くんだりまで来て大勝軒もないだろうが、しかし、食ったのだった。店内のテレビでは売れっ子アナウンサーの来歴を紹介し、キャラクターをいじり、タレントの如く売り込む、というような番組をやっており、彼我の世界の差に、華やかさについては天と地ほどの差に、打ちのめされて、やっぱり気分は沈み込む。あいつは慶応卒、おれは早稲田、などと、胸の内にはくだらない張り合い、結局は、生まれ育ちの差ではないですか。おのれの無能を育ちのせいにするなかれと、おれの常識だか良心だかわからない部分が、耳元でささやくけれども、事ここへ至っては、どうでもいいさ。育ちか、そうでないのか、決着を求めたところで、どうなる。また、話が不快なところへ落っこちてきた。
風俗街へ足を踏み込む前、たばこ屋へ行ったのだがプルームテックはまだ熊本未進出だということで、取り扱っていなかった。プルームテックは先週金曜日に結縁院法師からもらったものである。お大尽みたいにポンとくれた。気前のいい先生だ。
(2018年1月25日)
なにか重要なイベントが迫ってくるととたんになにごとも手に着かなくなる(今回の場合は明後日の試験)。昨日一昨日あたりから労働脱出資産形成を志向する人のブログを読んだために、気分がいい。現代を単純化して言い表すと、原始的な資本主義ではなく社会主義でも共産主義でもなく、修正資本主義の仕組みで動いているのではなかろうか。原始的なそれは労働者が余剰財産を得ることを許さなかったが、今なら生活に必要な飼料+αの賃金を得ることができている(それは経営者や株主の慈悲、ありがたいお恵みによってではなく、武力闘争によって勝ち取った神聖な黄金である)。だからそのαを株券の購入やらに用いて、やがて労働者を脱出することができる。格差というのは労働者からの脱出がしやすいか否かということにありそうだ。絶対に脱出ができない断崖絶壁の状態から、労働者と資本家がころころ入れ替わる状態まで、国によってさまざま形があると思う。となれば労働者がやるべきは財産の蓄積である。決して全財産を飲み尽くしてしまうことではない。人生の目的が見つからない、などと言って変な趣味や宗教献金に走ることでもない。まずもって労働からの自由を得て、有閑階級の座を目指すことだ。働かないでいるのは道徳的に劣っている、などという非難はこの場合的外れである。なぜなら有閑階級になってからだって働いていいからだ。金が要らないなら無報酬でも、とにかく働きたければ働けばいい。だから仕事に「やりがい」を見いだして労働者という立場に永遠に身を置くべきであるという論はプロバガンダの要素を多分に含んでいる。あるいはもはや労働から脱出できないと確信してしまった者らの、自己正当化、自己防衛の発言であると思う。「労働からの自由」はないよりもあった方がいい。
労働から自由になった上で、「やりがい」ある仕事なりなんなりをすればいいじゃないか。ひとつ皮肉を言わせてもらうと、「やりがい」を声高に主張する連中だって、宝くじで3億円が当たったら仕事辞めるんじゃないだろうか。あるいは3億円得た上で、仕事に励むんじゃないだろうか。3億円を放棄して、あくまで賃金取りの立場を死守する、などということは考えられない。しかし「やりがい」教連中は、後進の者どもに「賃金取りの立場は神聖である」というようなニュアンスをほのめかしているように感じる。「働くことは尊い」、その考えはまことに結構だ。だが財産を保有した上で働いたっていいのである。連中の言葉はまるで「財産がない状態で(賃金取りというスリリングな身分に自分をおいて)、働くのは尊い」というように響く。人類中でも特に偉大なギリシア人たちは、クセルクセスの軍勢を前にして、ペルシア王の下で大臣として安楽な生活を営むくらいだったら、死を見据えて自由のために、隷従を退けるために戦ったほうが善いと主張した。
ただし株の配当のみで生活するということは、身分が不安定であるということと同義でもあるように思う。リスキーである。まったくのノーリスクではない。だから景気のいい時は社会の仕組みを冷静に観察した上で、労働者としてペルシア大臣の座に甘んじるということを選択した者があったと思う。現代はどうか。労働者としての生活をしていたってリスキーなのだ。鬱病。人生の蕩尽。四六時中卑しい人間関係に頭を支配される。失業。こと失業に関しては、株の配当で生活していたってダメなときはダメで労働者に転落するのと同様、労働者だってまた職を失い一からスタートということがありえる。それだったら資本家の身分を選ぶのが賢いということになる。資本家が有り金擦ったって(借金してなければ)パートのレジ作業に身を落とす。労働者が失業したってパートのレジ作業に身を落とす。結末が同じなら(どうせダメージは同じなんだから)資本家でいいじゃないか。
格差の拡大ということがよく言われる。それが本当ならわれわれは資本家に転じ難くなっているってことだ。逆に資本家になってしまえば勝ち馬への搭乗ということにもなる。もしかしたら弱小資本家と巨大資本家の格差も広がっているのかもしれないが、よく分からない。そこのあたりは調べなくてはいけない。