【過去日記】熊本について

昨日は労働の最中に熊本の女性から、熊本へ来たら女を買わなきゃいかん、というようなことを聞かされて、自我のないおれは俄にその気になり、街をふらふらしたところが、いろいろとつまらないことなど思い出されて、辛くなり、死にたいと思い、なおふらふらして、ついに、気がついたら、風俗街へ入り込んでいた。

仙術にかかったみたいに、いつの間にか、四囲の建物がけばけばしく変化し、キャッチのヤクザが無数に召喚されていた。情けないことだけれども、いざそこへやってきてみると、まるっきり意気地がなくなってしまって、気分は塞いでいる、獣欲はあるけれども、金を失ったらつまらない、何より、生身の女と相対するのが、怖い、ということになり、大勝軒のつけめん食べて帰った。

熊本くんだりまで来て大勝軒もないだろうが、しかし、食ったのだった。店内のテレビでは売れっ子アナウンサーの来歴を紹介し、キャラクターをいじり、タレントの如く売り込む、というような番組をやっており、彼我の世界の差に、華やかさについては天と地ほどの差に、打ちのめされて、やっぱり気分は沈み込む。あいつは慶応卒、おれは早稲田、などと、胸の内にはくだらない張り合い、結局は、生まれ育ちの差ではないですか。おのれの無能を育ちのせいにするなかれと、おれの常識だか良心だかわからない部分が、耳元でささやくけれども、事ここへ至っては、どうでもいいさ。育ちか、そうでないのか、決着を求めたところで、どうなる。また、話が不快なところへ落っこちてきた。

風俗街へ足を踏み込む前、たばこ屋へ行ったのだがプルームテックはまだ熊本未進出だということで、取り扱っていなかった。プルームテックは先週金曜日に結縁院法師からもらったものである。お大尽みたいにポンとくれた。気前のいい先生だ。

(2018年1月25日)

【過去日記】資本家について

 なにか重要なイベントが迫ってくるととたんになにごとも手に着かなくなる(今回の場合は明後日の試験)。昨日一昨日あたりから労働脱出資産形成を志向する人のブログを読んだために、気分がいい。現代を単純化して言い表すと、原始的な資本主義ではなく社会主義でも共産主義でもなく、修正資本主義の仕組みで動いているのではなかろうか。原始的なそれは労働者が余剰財産を得ることを許さなかったが、今なら生活に必要な飼料+αの賃金を得ることができている(それは経営者や株主の慈悲、ありがたいお恵みによってではなく、武力闘争によって勝ち取った神聖な黄金である)。だからそのαを株券の購入やらに用いて、やがて労働者を脱出することができる。格差というのは労働者からの脱出がしやすいか否かということにありそうだ。絶対に脱出ができない断崖絶壁の状態から、労働者と資本家がころころ入れ替わる状態まで、国によってさまざま形があると思う。となれば労働者がやるべきは財産の蓄積である。決して全財産を飲み尽くしてしまうことではない。人生の目的が見つからない、などと言って変な趣味や宗教献金に走ることでもない。まずもって労働からの自由を得て、有閑階級の座を目指すことだ。働かないでいるのは道徳的に劣っている、などという非難はこの場合的外れである。なぜなら有閑階級になってからだって働いていいからだ。金が要らないなら無報酬でも、とにかく働きたければ働けばいい。だから仕事に「やりがい」を見いだして労働者という立場に永遠に身を置くべきであるという論はプロバガンダの要素を多分に含んでいる。あるいはもはや労働から脱出できないと確信してしまった者らの、自己正当化、自己防衛の発言であると思う。「労働からの自由」はないよりもあった方がいい。

 労働から自由になった上で、「やりがい」ある仕事なりなんなりをすればいいじゃないか。ひとつ皮肉を言わせてもらうと、「やりがい」を声高に主張する連中だって、宝くじで3億円が当たったら仕事辞めるんじゃないだろうか。あるいは3億円得た上で、仕事に励むんじゃないだろうか。3億円を放棄して、あくまで賃金取りの立場を死守する、などということは考えられない。しかし「やりがい」教連中は、後進の者どもに「賃金取りの立場は神聖である」というようなニュアンスをほのめかしているように感じる。「働くことは尊い」、その考えはまことに結構だ。だが財産を保有した上で働いたっていいのである。連中の言葉はまるで「財産がない状態で(賃金取りというスリリングな身分に自分をおいて)、働くのは尊い」というように響く。人類中でも特に偉大なギリシア人たちは、クセルクセスの軍勢を前にして、ペルシア王の下で大臣として安楽な生活を営むくらいだったら、死を見据えて自由のために、隷従を退けるために戦ったほうが善いと主張した。

 ただし株の配当のみで生活するということは、身分が不安定であるということと同義でもあるように思う。リスキーである。まったくのノーリスクではない。だから景気のいい時は社会の仕組みを冷静に観察した上で、労働者としてペルシア大臣の座に甘んじるということを選択した者があったと思う。現代はどうか。労働者としての生活をしていたってリスキーなのだ。鬱病。人生の蕩尽。四六時中卑しい人間関係に頭を支配される。失業。こと失業に関しては、株の配当で生活していたってダメなときはダメで労働者に転落するのと同様、労働者だってまた職を失い一からスタートということがありえる。それだったら資本家の身分を選ぶのが賢いということになる。資本家が有り金擦ったって(借金してなければ)パートのレジ作業に身を落とす。労働者が失業したってパートのレジ作業に身を落とす。結末が同じなら(どうせダメージは同じなんだから)資本家でいいじゃないか。

 格差の拡大ということがよく言われる。それが本当ならわれわれは資本家に転じ難くなっているってことだ。逆に資本家になってしまえば勝ち馬への搭乗ということにもなる。もしかしたら弱小資本家と巨大資本家の格差も広がっているのかもしれないが、よく分からない。そこのあたりは調べなくてはいけない。