【過去日記】資本家について

 なにか重要なイベントが迫ってくるととたんになにごとも手に着かなくなる(今回の場合は明後日の試験)。昨日一昨日あたりから労働脱出資産形成を志向する人のブログを読んだために、気分がいい。現代を単純化して言い表すと、原始的な資本主義ではなく社会主義でも共産主義でもなく、修正資本主義の仕組みで動いているのではなかろうか。原始的なそれは労働者が余剰財産を得ることを許さなかったが、今なら生活に必要な飼料+αの賃金を得ることができている(それは経営者や株主の慈悲、ありがたいお恵みによってではなく、武力闘争によって勝ち取った神聖な黄金である)。だからそのαを株券の購入やらに用いて、やがて労働者を脱出することができる。格差というのは労働者からの脱出がしやすいか否かということにありそうだ。絶対に脱出ができない断崖絶壁の状態から、労働者と資本家がころころ入れ替わる状態まで、国によってさまざま形があると思う。となれば労働者がやるべきは財産の蓄積である。決して全財産を飲み尽くしてしまうことではない。人生の目的が見つからない、などと言って変な趣味や宗教献金に走ることでもない。まずもって労働からの自由を得て、有閑階級の座を目指すことだ。働かないでいるのは道徳的に劣っている、などという非難はこの場合的外れである。なぜなら有閑階級になってからだって働いていいからだ。金が要らないなら無報酬でも、とにかく働きたければ働けばいい。だから仕事に「やりがい」を見いだして労働者という立場に永遠に身を置くべきであるという論はプロバガンダの要素を多分に含んでいる。あるいはもはや労働から脱出できないと確信してしまった者らの、自己正当化、自己防衛の発言であると思う。「労働からの自由」はないよりもあった方がいい。

 労働から自由になった上で、「やりがい」ある仕事なりなんなりをすればいいじゃないか。ひとつ皮肉を言わせてもらうと、「やりがい」を声高に主張する連中だって、宝くじで3億円が当たったら仕事辞めるんじゃないだろうか。あるいは3億円得た上で、仕事に励むんじゃないだろうか。3億円を放棄して、あくまで賃金取りの立場を死守する、などということは考えられない。しかし「やりがい」教連中は、後進の者どもに「賃金取りの立場は神聖である」というようなニュアンスをほのめかしているように感じる。「働くことは尊い」、その考えはまことに結構だ。だが財産を保有した上で働いたっていいのである。連中の言葉はまるで「財産がない状態で(賃金取りというスリリングな身分に自分をおいて)、働くのは尊い」というように響く。人類中でも特に偉大なギリシア人たちは、クセルクセスの軍勢を前にして、ペルシア王の下で大臣として安楽な生活を営むくらいだったら、死を見据えて自由のために、隷従を退けるために戦ったほうが善いと主張した。

 ただし株の配当のみで生活するということは、身分が不安定であるということと同義でもあるように思う。リスキーである。まったくのノーリスクではない。だから景気のいい時は社会の仕組みを冷静に観察した上で、労働者としてペルシア大臣の座に甘んじるということを選択した者があったと思う。現代はどうか。労働者としての生活をしていたってリスキーなのだ。鬱病。人生の蕩尽。四六時中卑しい人間関係に頭を支配される。失業。こと失業に関しては、株の配当で生活していたってダメなときはダメで労働者に転落するのと同様、労働者だってまた職を失い一からスタートということがありえる。それだったら資本家の身分を選ぶのが賢いということになる。資本家が有り金擦ったって(借金してなければ)パートのレジ作業に身を落とす。労働者が失業したってパートのレジ作業に身を落とす。結末が同じなら(どうせダメージは同じなんだから)資本家でいいじゃないか。

 格差の拡大ということがよく言われる。それが本当ならわれわれは資本家に転じ難くなっているってことだ。逆に資本家になってしまえば勝ち馬への搭乗ということにもなる。もしかしたら弱小資本家と巨大資本家の格差も広がっているのかもしれないが、よく分からない。そこのあたりは調べなくてはいけない。

【過去日記】勇み足について

 坂口アンゴ、キ○ガイアンゴが言っていたが、人間、目の前のある人間に親切を行ってもそれは自己満足に近い何かがある。目の前の人間に配給の切符や食券をくれてやったところで、人類すべてを救済できるわけではない。それに時としてそういう行為が、自分の生命を危うくする。目の前の他人とおれの生命は等価値だ。おれのほうを犠牲にしてあちらのほうを優先する理由はない。ということは、おれは労働現場の人間にすげなくしたところで良心の呵責を覚えることはないし、労働現場の人間に親切にしないことを気に病んだところで、なにも得るところはない。おれたちは法治国家の下で理性的に生きている(というのが建前である)から、法に背かない範囲で退職するのも転職するのも決して悪いことではないと思う。へたくそな日本語だなあ。何がいいたいかというと、おれの日々感じている罪悪感様のものはたいてい、勇み足だということだ。自己満足に近いものだということだ。創造的ではないということだ。もちろん、罪悪感を覚えたくて覚えているのではなくて、病気のせいで、つまりは、肉体のせいで、そうなっているのだから、どうしようもない、薬や療法に頼る必要はある。

【過去日記】財産について

 おれは財産をつくりたいと思っているけれども、日々忙殺されてそれを忘れがちだ。何が何でも財産をつくらなくてはいけない、というわけではない、というのが本当のところだろう。財産ができて安楽な(おれの思う安楽な)暮らしをして、という状態を労働をしながら実現(錯覚)できたらそれはそれでおれはよいと思っている。どちらも同じことだ。生きているのも死んでいるのも同じ事だ。カフェインで得た快楽も運動で得た快楽も同じことだ。錯覚も実在も同じ事だ。まあ、精神の安寧を保ちながらぼちぼちやっていくのが一番いいと思うし、それが英雄のやり口だと思う。この時代にナポレオンは生まれない。生まれたとしたらそれはこういうやり口の達人なのだと思う。時代によって英雄のかたちは変わってきた。いまやアキレウスは蛮人にすぎぬ。ナポレオンは簒奪者にすぎぬ。オデュッセウスもマシンガンの前には無力だ。プラトンもサラリーマンに仕立て上げられたら無惨なものだ。賢者たちよ、生きよ、超越せよ。システムを笑え、おまえのその頭のなかの国家のみは、自由の君主国であれ。
 幸福を生産することだ。積極的に幸福を生産することだ。永続を望むのは神々の領域を侵犯することだ。刹那を生きろ。刹那の幸福を知れ。

双極性障害と江戸の風呂

双極性障害を抱えていると(別にそうではない人だって、時にはそうなることもあるだろうが)、風呂に入るのが難しい日がある。そういう時はどうするかといえば、簡単で、風呂に入らなければいい。風呂に毎日入らなければならないのは、常に人と会って交渉をするような仕事の人物であって、おれのようなリモートワークを特別に許された障害者雇用人間には当てはまらない。おれは風呂をある程度免除されている身分の者である。

それはそれとして、最近は頻繁に風呂に入るためのコツを発見したからみなさんにここで紹介をしたいと思う。前述の通り風呂に毎日入る必要はないのだが、しかし、入れば入ったなりにメリットがたくさんある。まず気持ちが良い。とても気持ちがよい。あたかも、シャトー・ディフに幽閉されていた囚人がうまく逃げおおせて、ようやく南仏の海にざぶんと身体を投げ込んだがごとく、解放された気持ちになれる。それから肌がすべすべになって調子が良い。おれは美肌にこだわるような軟弱な輩ではないが、そんでも風呂上がりの肌のすべらかなことはおれの心を和やかにしてくれる。そして何より、この世で最上の妻たるエデと身体の接触を伴う愛情表現を示す場合は、おれは、風呂に入っておったほうが好ましいと思う。そりゃだれでも、フケだらけの頭をした男とハグをしたいとは考えないだろう。

さて、その風呂に入るためのコツというのが次のようなものだ。まず風呂釜に高温のお湯を入れる。高温ってのは主観によるだろうが、おれの場合は45度くらいがいいらしい。そんで、お湯がたまったならば、そこへクナイプの入浴剤をぶちまけてかき混ぜる。なぜクナイプの入浴剤でなければいけないかと言えば、それは、おれの家にはクナイプが、独身時代に買ったものだが、たくさん余っており、これを消費したいと是非考えているからだ。このようにして、おれはクナイプ色に染まった熱湯を準備することが出来た。そうしたらおれダルタニャンは裸になる。肉体から衣服を取り除く。おれの筋肉はあたかもオデュッセウスのそれの如くがちがちだが、そんでも、中年に差し掛かってきた功徳でもあろうか、腹のほうがぽこっと飛び出してこれはこれで愛嬌があって良い。そんなおれの肉体美をエデは賛美するが、ともかく、そのままおれはクナイプ熱湯にダイブするのだ。熱い! そう叫んで肩まで湯に浸かり、そんで、しばらく経ったら風呂釜の湯を桶ですくって頭を洗って、最後に、陰部をしっかり洗浄し、ささっと入浴を終える。

これがおれダルタニャンの発明した江戸式の入浴である。どこら辺が江戸なのかと言われればそれは、我慢、忍耐しながら熱い風呂に浸かってそれで強がって「気持ちよかった」とエデに報告するところがそうだ。

実際のところ、精神疾患を抱えている人は風呂を大変の苦手としている。おれは今回紹介した方法が誰にでも有効であるとは考えない。むしろ最近軽躁気味のおれのことだから、元気があるからこそ実行できているだけの手段であるとも言えるかしらん。ともかくおれの考えているのは、精神疾患を抱えながらも生活上の様々な不便を乗り越えるために工夫を重ね、そんで、なんとか生存を継続している者たちはイリオン攻めの勇士たちに並ぶ素晴らしい英雄であるってことだ。そうした細やかな努力は、ホメロスが語ったように、けちんぼなアガメムノーン王(世間の人々)には評価をされない。だが、せめて、おれだけは当事者として、諸君の奮闘をよく分かってやり、そして、その日々の勝利に対し栄えある金羊毛勲章を授けたい。

双極性障害とオオクワガタ

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 剛勇のディオメーデースみたいなオオクワガタだろう。これはウィンター卿。恐れを知らぬクワガタ界のイギリス貴族だ。

 きょうはなんかいまいち調子が悪いので、クワガタを眺めて暮らすよ。きのう仕事を早退したしな。

Ça doit être un lucane intrépide comme le vaillant Diomède. Voilà Lord Winter : un aristocrate britannique du monde des coléoptères, qui ne connaît pas la peur.

双極性障害が妻に落涙を強いる

 わが最良の妻たるエデを泣かせてしまった。

 麻雀(じゃんたま)をプレイして、点数に応じて数百円のやりとり(つまるところ、これは、ギャンブルである)をしようと提案した。エデはこれを飲んだ。たぶんおれと彼女との間に実力差があることを知りながら、しぶしぶ飲んだ。その心の内にはきっと、おれを楽しませたい、仕事を早退したおれを少しでも喜ばせたい、という意図があったろう。おれはそれを踏みにじった。チートイツの満貫(親)で12,000点あがって結局、エデから300円をせしめた。そうしたらエデは泣いてしまった。

 ひどいことをしたもんだ、と思った。ギャンブルは、これは長老(スリランカのお寺の住職)も語っていたのを聞いたのだが、在家のシーラ(戒律)には入っていないものの、明確によくないこととされている。するな、と。その理由がよく分かる。まず妄想をかきたてる。勝利の妄想を惹起し、脳に悪い物質を増加させる(それは科学ではドーパミンとかアドレナリンとか言われるものだろう)。そして勝った方がただ賞金をもらえるだけならともかく、負けた方は罰金を支払わなくてはいけない。必ずどちらかが悲しみを得る結果になる。これがよくない。どちらかが良くて、どちらかが悪い。これがよくない。どちらも良い、ともかく物質に依存せず、全てが良い。これが賢者の(仏道に限らずです)道のはずだ。ところがギャンブルはそうではないのだ。妄想の強化、そして損の辛さ。損する相手が最愛の妻であると考えれば、なおのこと、これはよくないのだ。

 ギャンブルは、やめだ。麻雀は楽しいからやってもいいが。おれはきっとエデが思っている以上に、反省し、今回の件について深く考えた。そして何が彼女の涙を誘ったのか、何がいけないことだったのか、それを追究した。繰り返すが、「妄想・欲望の強い惹起」「最愛の者が損するのをを楽しむこと」これが同時にやってくるのが身内のギャンブルだ。だから、良いわけがない。

 双極性障害は調子に乗ったことをする。調子に乗るのが躁鬱人の躁鬱たるゆえんかもしれない。あまりはしゃがないがいい。静かに生きる、賢者の道を行く、それを目標にしなくてはなるまい。

双極性障害は仕事を早退した

 きょうは仕事を早退した。双極性感情障害の人間はたびたびこういうのをやる。感情、気分の波、服薬のうまさ、そういうのが安定しないので、早退、欠勤、これがなくては務まらない。ふつうの人、健康の人は、安定していて休まない。信じられない事実だが、有給休暇を付与されたにもかかわらず、時効にまかせて消滅させてしまう(くらい休まない)人間もいるとか。おれはそれはふつうに損だからビジネスマンとして失格行動と思うのだが、ともかく、そのくらい休まない。それは再度言うが賢くないし、どうかしているんだが、おれの言いたいのは、健康の人はそんくらい安定していて、早退も欠勤も無縁なもの。そこへ来ると躁鬱人は、賢いな。お給料もらいながら休むんだから。合法的に、ね。ははは……。

 これは日記ではあるが、人に見せるため公開している。公開している以上、閲覧者のためになる有益な情報を載せるのが善い。だからおれはある種の患者の(つまり、ダルタニャンおれのことだ)定点観察めいて、調子の悪い日の(あるいは良い日の)状態、特筆すべき事項を記しておこう。

 まず常用しているのがリチウム普通量。バルプロ酸比較的多量。リボトリール1mg。レキサルティ少量。頓服として用意されているのがリボトリール1mg錠剤で、これは一日につき5mgまで服用を許されている。また、レキサルティも一日の合計が2mgになるまで許されている。

 きょうは早退するくらいだから、悪い調子の日だった。この日の特筆すべき事項。まずカフェインの摂取が「多」。リボトリールの摂取が「3mg、つまり多」。思うに、この二つの相互作用がおれをふらふらにして、仕事に集中出来なくさせちまって、早退を決断させた。早退を告げた時、周囲の同僚たちそして上長はとても優しかった。これは救いだ。

 結論として、まずカフェインの「多」これはよくない。不安感、焦燥感を増大させる。眠い場合は睡眠時間の見直しをしよう。それから早朝に散歩や有酸素運動を取り入れよう。どうしてもだめなら医師に相談しよう。もっぱら、服薬のアドバイス、見直しを依頼するのが良い。また、リボトリールの「多」。これは最悪だった。朝の時点で予期不安に対抗するために飲んだのだったが(しかも、エナジードリンク・ピンモンで流し込んだのだ)、それからというものふらふらして仕方がなかった。ポケモンで言ったらパッチールだった。どうか、これを教訓にして躁鬱人諸兄も、クスリには気をつけて欲しい。クスリはリスクとはよくぞ言ったものだ。そうだな、ラ・フェール伯爵よ。なあ。

双極性障害は賃金を得る


 きょうは仕事に出なければならない。本当は休みたいくらいの体調なのだ。元気がないわけじゃない。焦燥感と不安感と、それから易怒性の発露がおれをしんどくしている。仕事をしなければ賃金を得られない。賃金を得られなければ、妻たるエデとの蜜のような生活を継続できない。それはいやだ。明白にいやだ。でも労働も、嫌なんですよ。嫌、というよりも不可能、に近い。おれは無能者だ。この生活をあと数十年継続するのは不可能だ。物理的に不可能だと思う。どこかで脳がぷつんと壊れてしまう。そんな気がしている。いまは薬剤のコントロールでなんとかしている。そもそも労働を、薬剤でコントロールしてまで継続する不自然さ、グロテスクさをみな分かっていない。『水と原生林のはざまで』を引用するまでもなく、人間たちは本来のところ、全員が全員働いていたわけではない。働けるわけでもない。養う者と養われる者がいて、それはそれで善いとされている。ギリシアの賢者たちはどうか。養われる者だ。奴隷に養われていた。歴史に名を残しているのはどちらか。賢者たちのほう、すなわち養われていた方だ。

 リチウムを飲んで、バルプロ酸を飲んで、リボトリールを飲んで、双極性感情障害と格闘しながらきょうをやり過ごそうではないか。

 じつのところおれは、ダルタニャンは、仕事中デスクでポケモンカードのデッキリストを作成して時間を潰している(暇なわけではなく、精神的な安定を保つため)。

双極性障害と死闘しているダルタニャン


 昨日はおれはあまり寝付きがよくなかった。というのも、月曜日がやってくるのが非常に恐怖だったため。おれは比較的人と付き合うのに苦手意識をそう持たないはずの人種であるが、どういうわけか、双極性障害を発症してからというものの、会社に行ったり買い物(人で混み合っているスーパーなど)に行くのが苦痛でたまらない。そう、何を隠そうおれ、ダルタニャンは双極性障害を有している騎士だ。アロンソ・キハーノの二つ名を借りるならば、憂い顔の騎士だ。正確には双極性感情障害というのが病名らしい。あと依存症。アディクションをもっている。何の依存かと言えば、おれはトー横女子なので(※トー横女子ではありません。ラ・ロシュル攻囲戦にも参加したことのある屈強な勇士です)、金パブ依存である。すなわち、カフェインとエフェドリンとコデインに依存しているんだな。これらを過剰に摂取すると、不安感が一気に消し飛び、眠気が晴れ、集中力が鬼神のように鋭くなる。ドーピングだ。金パブみたいな風邪薬依存は、表になっていないだけでけっこう人口が多い(薬剤師がそう言っていた)のだが、つまるところその効能が、「サラリーマンのためのドーピング」であるから便利なのだな。それだから流行するのだ。労働者のクスリとしてはこれ以上ないほど好条件が揃っている。手に入りやすさ、価格、副作用の軽さ(連用しすぎると入院するほど重いぜ、さすがに)、などなど。

 おれは新婚という身分を手に入れたのだから、こんなに幸せなことは他にないのだから、しっかりと依存症とも向き合い、これを克服し、まともになりたいよ。なあ。

 最近は友人の福田院法師、甘露院法師、双嵐院法師、結縁院法師、その他世話になった先輩方と連絡をとっていないし、会ってもいない。独身時代は毎週のように食事をしていたものだが、いまは結婚をおれがしたもんだから、みんな遠慮をして連絡をよこさないようだ。これじゃさみしいので、エデ(妻)に許可をもらって、おおいに交歓したいもの。