生活の倫理について

朝、モルモットは理由もなく鳴く。
人間は理由を探したがる。
この差異が、案外、倫理の入口なのかもしれない。
昨夜の残りの味噌汁を温め直し、白米をよそう。
食事は栄養摂取であり、同時に秩序の確認でもある。
腹を満たすだけならケバブ一つで足りるが、「温め直す」という一手間は、昨日と今日をつなぐ。
昨日の自分を無効にしない、という慎みだ。
法律にも似た話がある。
条文の目的は、規制のためではなく、生活の摩耗を防ぐために置かれている。
労働時間、休息、保険、福祉――それらは人を立派にするためではなく、
壊れ切らないためにある。
ケバブ屋の兄ちゃんは、今日も肉を削いでいる。
あの仕事は現代的ではない。だが不道徳でもない。
むしろ、家族と雑談しながら働くその姿には、効率主義の外にある倫理が漂う。
トマトとヨーグルトを混ぜたイスケンデルソースのように、
強さとやさしさは、混ざってこそ食える。
モルモットは五戒を知らない。
だが噛みすぎないし、奪いすぎないし、群れの温度を保つ。
観察すると、欲を減らす知恵は、必ずしも言語を要しないことが分かる。
人はつい、自分の「二桁勝利」を探す。
若い頃の合格、称賛、数字。
だが生活の倫理は、ハイライトではなく反復に宿る。
皿を洗うこと。薬を量ること。寝ること。
そして今日は無理をしない、と決めること。
ケバブは毎日違う。
同じ肉でも、削ぎ角度が違う。
同じ一日でも、身体の湿度が違う。
違いに気づく力が戻ってきたなら、それは回復の兆しだ。
モルモットは今、ケージの隅で密談している。
人間には聞き取れないが、議題はたぶん単純だ。
「今日も、ちゃんと生きたか?」
答えが「まあまあ」なら、十分である。
倫理とは、英雄になることではない。
明日も台所に立てることだ。

エデはトンカツを揚げてくれた。おいしかった!

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